レコ発ワンマンライブを終えて(感情編

孤独との闘い。。と、いうと重くとられるかもだけど、要は自分との向き合いだった、今回のライブ制作。2015年にもキャパルボワンマンやりました。けれど集客も含め、リスクを背負った、という感覚は、今までで一番強かった。

こんなことブログに書く必要はないのかも?とも思う。けれど、だからこその達成感と、それに伴い居場所が変わることの喪失感に、今までとは全く別の感情が生まれている。

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出世魚は、成長ごとに姿を変えて行く。それを見た人間が名前を変える。本人(魚)にはきっと、そんなことはどうでも良いのだ。どうでも良いどころか、そんなの知る由もないだろう。

知らないまま、どこかで絶える。大きな魚に食べられてしまうのか?人間に釣られてしまうのか?どこぞで漏れたオイルやなんかに身動きとれなくされるのか?

人間だって似たようなものなんだと思う。肩書きなんかどうでも良いのだ。でもどこかで誰かに「名付けられる」ことが、ひとつの社会なんだとも思う。自分のことを評価するのは自分ではない。他人だ。

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音楽は音を楽しむ、もの?けど人によっては、たまに苦しさを産む時もあるんだろう。私は歌ってる時は最高に気持ち良い。今のところは、歌える場所があるからこそ、それが気持ち良い。

カラオケやなんかとは違う。このベツモノ感は、誰かの歌をどこかで観て聴いて「あー、これなら自分の方が上手いわ」って言ってるうちはたぶん理解出来ない。いつかの理解出来てなかった私は、それを知った。やるようになったから。

やってみなきゃわからないし、始まらない。世の中そんなことだらけだ、というのは、逃げずに向き合うようになってから、初めて気づいた。

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2018年3月3日に至るまで、私はグッとグッと潜った。誰かの真似にしか見えないようなことは、なるべく避けてやってきたハズだけれど、そう思われてたらどうしよう? 無計画にモノづくりをすることは、必ず破綻する。そうならないために、どこへ向かえばいいのか?何を気にすればいいのか?誰かの、無計画で中途半端なモノゴトを見かけるたびにイライラすることさえあった。他人事なのに。

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当日。
リハが進むにつれ、いろんな想いや感情が込み上げては消えていった。「そうだ、そんなことどうでもいいよ」そう思うたびに、真逆の感情があらわれる。天使の自分と悪魔の自分。リハが進む。また思う。また消える。その繰り返し。


本番。
「悔いのないように」と、リキむ自分と、「気楽に楽しく」という自分が交互にやってきた。ひとつ終わるごとに、ひとつ緊張が解け、ひとつ想いが出てきて、またひとつ消える。もうずっと精神的にも肉体的にも疲れていたから、誰かに助けて欲しかった。助けるというのは「私の代わりにコレをして」ではなく、ただ私に手を添えてほしい。そんな感覚だった。

ライブは、とにかく楽しかった。同時にとにかくさびしかった。たった1日のためのこれまでの準備が、全て旅立って行く。曲がひとつひとつ旅立って行く。そして感情も旅立って行く。笑顔とは裏腹に身体が硬直していた。

大詰めに差し掛かり、椅子に座って、必死で感情をコントロールしていた時、ある人が私の背中に手を置いた。正直、なんでこんな時にそんなことするの?!って思った。ポンポンと背中に充ててくれた手のぬくもりは、私の涙腺を刺激してきた。ダメダメダメダメ。まだまだステージ残ってるのに。。本当は泣きたいほど嬉しかったのに、私はその人に「なによ?!」と返した。それが精一杯だった。

感情を放出してもいいハズのステージで、感情をコントロールして、私は最後まで笑顔で乗り切った。

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終わったあと、いろいろな人が感想をくれた。その感想も今までとは全く違うものが多かった。私の中にあった「せつなさ」を感じとってくれた人も多かった。こんな風に「あ、伝わったんだな」って思えたライブは初めてだった。

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この5、6年の間、年々増えていくステージ数。遊びの延長には出来ないようなオファーも増えた。「最新が最上」。その言葉を胸に、もっともっとこれからも歌っていたい。今の私は、出世魚に例えるなら、やっと1回目の進化に差し掛かったところだと思う。
これまで自分なりに変化していたつもりだったけれど、今からだったんだ、って、初めて気づいた。

私はなんでもやれる?
ひとりではなんにも出来ない。

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