半径数メートルの哲学(前編)

ある知人が、半径数メートルの幸せについて発言していて、ふと思い出すことがあった。あ、その知人発言と今から書くブログは無関係です。

「ペイフォワード」という映画。主人公の少年が、授業で「今日から世界を変えてみよう」という課題を出され考えついたのは、人から受けた厚意をその相手に対して恩返し(ペイ・バック)するのではなく、 別の誰かに別の形で恩を贈る(ペイ・フォワード)というアイデア。「次へ渡す」ことで、善意を拡げていこうというもの。

私はこの映画を観た当時「なんて素晴らしいんだ!」と思いました。そもそも私はもともとやってたんです。目の前で自転車が倒れていたら起こすし、どこかのおばあちゃんが大きなスーパーで何かに迷っていたらインフォメーションに連れていく、くらいのことは当然でした。偽善?いやいや。それは目の前の誰かが笑顔になればいい、と思ってたから。だから映画の中で伝えようとしてる「善意が拡がる可能性」なんて考えもしなかった。

世の中で不穏な状況が続いた時には民主主義と社会主義の利点と難点を真剣に考えたし、それを投書することもありました。(今のようにインターネットですぐ拡散されない時代・笑)
正義感だけが無駄に強かった私は「自分が今出来ること」で、半径数メートルの幸せを得ようとしていたのでしょう。自分だけでなく、みんなで楽しくなれれば、ぜんぶ楽しい。

「みんな」が平等に幸せになる、とはどういうことなのか?それを本気で考えてた頃のヤングな私は、◯◯党や◯◯党に投票したことはなかったですが、社会(共産)主義的な考えも理解しようとしていました。「何かのため」ならリスクを背負って初めて、モノゴトが動かせる。例えば、国会議事堂を爆破したらリセット出来るの?なんていう、自分が生まれた時代がひと昔前だったら、連合赤軍に所属してたんじゃないか?くらいのとんでもなく非道なことも想像(あくまで想像!!!)してみたり。(今は想像さえ絶対ありません。「良かれと思って」と方向性間違う悪い例ですね)

なんじ、隣人を愛せよ。
とはキリスト教の言葉。(私は神道です)
本当に隣に住んでいる人だけを、というのではなく(笑)神様のもと「自分以外のすべての人々」ということらしいです。無限の愛と隣人愛。
ぺイフォワードもそうですが、根本として、半径数メートルではなくもっと別の場所へ続くもの。自分の行いが自分の知らないところで作用する。ソコを信じてこそ、隣人も愛せるのではないか?じゃあ半径数メートル「だけ」の幸せを求めることは、究極の自己愛なだけ。。?

なんじ、隣人を愛せよ。
意味の取り違いによっては、両極端な結論になる可能性。わお、哲学だな。面白いぞ(自分で面白がってる笑)

考えたオチから随分遠ざかったので、前編後編に分けることにします。

とりあえず、本日のブログミュージック、ココロイロトリドリ「トナリニアナタ」をどーぞw ごうくん、6月8日誕生日おめでとうw

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