半径数メートルの哲学(後編

さて。後編。
前編の最後に書いた「自分の行いが自分の知らないところで作用する。そこを信じなければ、隣人は愛せないのではないか?ということは半径数メートルだけ、の幸せを求めることは、究極の自己愛なだけ。。?」をまずひろげて行きます。

要は、自分の周りさえハッピーで居れば、その円がどんどん拡がって知らない人たちまでハッピー!っていう単純なハッピー増殖論。ソレって最高です。が、いつしか「自分たちだけ良ければいい」に転じる場合も少なからず。ハッピーに対する行動の違いで、結果が大きく変わっていく。スタートの時点で、隣人愛が「遠く向こう側まで続くもの」なのか「身近な周辺だけで行き止まるもの」なのかの分かれ道になっている。始まりは同じなのに結末が両極。まさに哲学。

もともとシアワセのカタチとは人それぞれ。円な人もいれば、楕円な人も。三角だったり四角だったり、波打ってたり、直線だけの人ってのもいるんだろう。要はコタエがないのだ。


「コタエがない」
とはどういうことなのだろう?
例えばよく言われる「数学は裏切らない」。どんなに難題でも必ずいつかコタエにたどり着く。今現在、スーパーコンピュータが延々と計算し続けていても、だ。私たちが人間としての生命を全うした後さえも未だコタエが出ないことがあるとしても、だ。数学にはいつかコタエが出るらしい。計算が終わらないだけ。。。それって、何を求めるか?で、国語とか道徳とか哲学とかでコタエがないのと同じではないの?

じゃあ「コタエがある」
とはどういうことなのか?
例えば本当はコタエが出ているのに、口に出さない。思っていても言葉にはしない。行動で伝わるか?というと、案外伝わらない。だから人間同士のコミュニケーションボキャブラリーの中に「かけひき」なんて言葉も存在するわけで。本当はかけひきなんてしてないのかもしれない。けれど、与える側、受ける側で意味が全く同じことはほぼないんだとしたら「ない」とは言えず「ある」とも言えない。


哲学者には、それぞれに名言が存在する。読んでハッとすることもあれば、ふーん、で終わることもある。何かに気づいたり気づかなかったり。気づいてあげたり、気づいてもらったり。自分で納得もすれば、しないこともある。

哲学者の名言はコタエなのか?
「ただ問われているだけ」じゃないの?って感じることが、多い。


ないものねだり。
半径数メートルのシアワセとは「ないものをねだらないこと」なのではないか?

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では、本日のブログミュージック。
東郷さくら「音なきコタエ」
with GLARE SOUNDS PROJECTION 

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